koko’s blog

VTuberの私が、書きたいことを自由に書くブログ。

Aさんの話。

Aさんには愛する旦那、愛する息子、愛する娘がいました。

そんなAさんは、

精神的に弱いというか、不安定なところがあって、

"愛する家族"に 手を出すことはありませんでしたが、

アイロンを投げたり、物を投げたり、叫んだり、

そういったことがよくありました。

だけど、Aさんなりに 家族を愛していました。

家族も、Aさんからの愛情は十分感じていました。

でも、旦那も息子も娘も、どこかで

〖Aはちょっと変わってるなぁ〗と思っていましたが、

Aさんを嫌いになったり、憎んだりすることはありませんでした。

Aさんからの愛を十分感じていたから。

 

そして そのまま月日は流れ、Aの息子がお見合いの末、

結婚、息子に 初めての奥さん が出来ました。

ふたりは、結婚と同時に、育った土地を離れ、

息子の仕事の関係で、他県へ移り住むこととなりました。

 

新しい土地、新しい環境、新しい結婚生活、

奥さんはとても緊張していました。

息子も、それと同時期頃から仕事が忙しくなり、

家に帰ってくる時間は連日朝方になっていました。

 

AさんはAさんで、初めての"息子と離れた生活"。

愛していたゆえの行動だったのか、

毎日、ふたりの住んでいる家に電話をかけ、

奥さんしかいない時間帯に

・息子に今日は何を食べさせたんだ

・息子は今家にいるか

・奥さんはちゃんと家にいるかチェック

をしていました。

 

奥さんは最初、〖息子想いの優しい母親(=Aさん)〗だと

思っていましたが、連日かかってくる電話に恐怖を

感じるようになり、息子(旦那)に相談しようとしましたが、

さきほど私が皆様にお伝えしたように、

息子は連日帰宅するのが朝方だったので、物理的に

相談する時間もありませんでした。

 

そんな生活が続く中、結婚生活7年目で

待望の子宝に恵まれました。女の子でした。

 

奥さんは、

"女の子の名前"を夫婦で考えたいと思っていて、

息子(旦那)は 子供の名前に対する自分の考えは特にありませんでした。

 

奥さんにとっては"初めての出産"で不安が大きかったため、

里帰り出産を選択しました。

 

そして、奥さんは無事女の子を出産、入院生活を終え、

息子(旦那)の実家に帰宅すると、自分の愛する娘の名前が、

"Aさんが決めた名前"のまま、すでに届出が出されており、

どうしようもできない状態になっていました。

 

この出来事は、

出産を終え、やっと病院から解放された頃、起きてしまった、

奥さんにとって 大変ショックの大きいものでした。

そのうえ、Aさんは、

〖奥さんの産んだ子供なら私は面倒を見ない〗

〖奥さんの産んだ子供を抱くことはしない〗などと言い、

女の子を抱きしめることはありませんでした。

 

結婚生活から10年の月日が経ち、

奥さんは Aさんに階段から突き落とされました。

 

【あぁ、もう無理だ、こんな生活、もう無理だ】

 

奥さんは 限界を感じていました。

だけど、自分の心の悩みを息子(旦那)に打ち明けたことは

1度もありませんでした。

 

そして、Aさんは

《うちの息子と別れてほしい》と奥さんに告げ、

奥さんはとても嬉しい気持ちになりました。

やっと解放されるんだ、と。

 

このふたりのやりとりを、息子(旦那)は知ることもなく、

奥さんは「あなた、私と別れてほしいの」と告げました。

 

息子(旦那)はあっけにとられすぎて、唖然としました。

【なんでなんだ】【どうしてなんだ】【なんでなんだ】

いくら聞いても、奥さんはなにも答えることはなく、

息子(旦那)が結局折れることしかできず ふたりは離婚、

(今までお互いの気持ちを

10年で1度も話し合ったことがない夫婦だったので、

当たり前の結果だったと思います。)

奥さんは愛する娘を連れて、生まれ育った土地に戻りました。

 

これが その娘が 3歳のときでした。

 

ここから始まった、"愛する娘"と"奥さん"との

2人暮らし。

 

娘は自分が成長するにあたって、いくつかの疑問が

頭に浮かんできました。

《私の両親は なんで離婚したんだろう》

その想いを母親にぶつけたのが、娘が小4の頃。

その想いに応えるかのように、私がここまで

書いた内容を全て、母親は 小4の娘に伝えました。

そして最後に一言、

「法律がない世界なら、私はAを殺したかった」

「そのくらい本当に嫌いだった」

「今でも思い出したくない」 

 

この言葉、そして、ここまでの内容すべてを聞いた娘は、

Aに対しての"あるイメージ"が出来上がりました。

 

【Aはやばい奴】【Aは怖い】【私はAに嫌われていた】

【そんなヤバイ奴につけられた名前?!大っ嫌い自分の名前】

 

こんなイメージを持ったままの娘は、

もちろん "Aに会いたい"なんて思うはずもなく、

むしろ会ったこともない、声も知らない、顔も知らないAのことを

大嫌いなまま まっすぐ育っていきました。

 

そして時は経ち、その娘も"大人"になりました。

それと同時に、Aも年を重ね、段々年老いていきました。

Aは、介護施設に入り、そこで働いていた女の子と仲良くなりました。

Aは、その女の子(介護施設のスタッフ)に、

・旦那が何年も前に死んでしまったが 本当に大好きだった

・私には女の子の孫がいる

・私の息子は離婚していて、その孫とは会えていない

・孫に会いたい

・愛する孫のために、ずっとお金を貯めていた

話をしました。

 

女の子はこれらの話に感動、Aのことを想い、曲を作りました。

Aが亡くなった日、多くの参列者がAを慕い集まり、

葬式会場では その女の子が作った曲が流れていました。

葬式会場では、Aを想い、泣き叫ぶひと、泣き崩れる人、

その光景はまさに、

【Aが多くの人から愛されていたなによりの証拠】でした。

 

あるひとからすればAさんは

《法律がない世界なら殺したい相手》でもあり、

あるひとからすればAさんは

《自分の事を思って曲を作ってもらえるくらい愛された相手》だったのです。

 

ここまでの話をすべて知った娘は、自分の中にあった

"Aさんに対するイメージ"が 大きく崩れ去っていくのを感じました。

 

それと同時に、娘は 多くのことを学びました。

 

・ひとにはいろんな面があるということ

・あるひとから嫌われているひとでも、あるひとからは好かれていることもあるんだということ

・ひとのイメージ(たった一面での判断)での思い込みはやめよう、ということ

・人から聞いた話だけで、その相手を判断することなく、

直接自分の目で 相手を見て 相手のことを判断していきたい、ということ

・"人のイメージ"を 見る前(知る前)から 自分の中で勝手に作るのはやめよう、ということ

 

娘がこれらの学びをやっと、心の底から経験できたとき、

すでに時遅し、Aはこの世から去っており、

娘は Aの 顔も知らないまま、声も聞けないまま

会うことすら叶いませんでした。

 

だけど、Aから学んだことは、自分の人生において

とても大きいものだと感じています。

 

直接Aと会って、"Aという人間"がどんなひとだったか、

"どんな面"がある人だったのか、どんな考えを持って、

どんな生き方をしていたひとだったのかを

直接自分の目で見て判断、知ることはできませんでしたが、

Aから学べたことはすべて、今もその"娘の心"に生きています。

 

この娘の名前、

それが

井津宮ここ。

 

お後がよろしいようで。